ぽろろんぱーぶろぐ:自分語り
2016-12-28T17:17:41+09:00
pororompa
歌を作る元小学校教師pororompaが、その日聴いた音楽(主にジャズ)・歌の創作・サッカー・教育・猫など、気の向くままに語るブログです。 コメント歓迎。
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60歳
http://pororompa.exblog.jp/25034735/
2016-12-10T22:04:00+09:00
2016-12-28T17:17:41+09:00
2016-12-10T22:04:02+09:00
pororompa
自分語り
60からは「老人」の範疇に入ると、若い頃から思っていた。還暦とか言って祝うのは言わば「老人式」というわけだ。だからこの日が来ることを密かに恐れていたし、今もさして嬉しい気分ではない。
だが思い直してみると、兄も親父も60になる前にくたばっている。親族で「爺さん」という存在が一人もいない。それを考えると、60まで生き延びたことは十分にめでたいことかも知れない。
それに、いざその年齢になってみると、老いた感じは自分ではあまりしない。肉体は衰えてはいるが精神的にはそれほど老いを感じないものだと思った。個人差もあるだろうが、これは自分でも意外だった。
それでもやはり、老人の第一歩であることは間違いないと思う。逃げることはできないし、まっすぐに見据えて生きていかねばならない。老人になることへの「覚悟」が求められる日だと思った。]]>
丘の上の校舎へ (自分語り4)
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2010-05-04T23:22:00+09:00
2012-04-05T22:58:57+09:00
2010-05-04T23:22:06+09:00
pororompa
自分語り
おかしな事件というのは、ぼくの出身校の幸脇小学校の運動場にたくさん木を植えた人がいて捕まった事件だ。Yahooトップにまでなっていたので、相当変わった事件ではあったと思う。自分の土地であるというのが言い分のようだ。
知り合いではないかと思っていたが、新聞を読んで思わず声が出た。「きゃぁむ君」ではないか。かなり年上なので、君というのは失礼だが、子どもの頃そう読んでいた。
広場で遊んでいたぼくらガキどもを集めて、ラグビーを教えてくれたことがあった。「ノッコン」とか「スローフォワード」とかの新鮮な言葉の響きが鮮明に記憶に残っている。本人も高校かなんかでラグビーに出合ったばかりだったのだろう。小学生にいろいろ教えてくれる頼もしいお兄さんという感じだった。
それから、そうそう、「わっだ、うちん山ん、ヤマモモちぎって食うたどがー!」とすごい剣幕で怒られたことがあった。あの頃から、山林地主の後継としての意識が強かったのだろうか。山の木になる実に、持ち主があるのだということに、初めて気付かされたのだった。
この幸脇小学校というのは山の中腹を切り開いた学校である。ぼくの生まれたタニゴという地区の裏山が、そのままこの学校の運動場に続いていて、裏山から潜り込むこともできた。何でも学校用に土地を収用した時のいきさつに不明な点があり、捕まった人の言い分にも一部の理があるらしいのだが、ぼくの先祖も山林地主だったらしいので、何か繋がりがあるのかも知れない。遠い昔が突然現代に引き出されたような気持ちで、半ば懐かしくこの奇妙なニュースを聞いた。
この事件で対応した市の職員というのがまた、中学生時代に大変お世話になった人だったが、これはまたいずれ書くことにしよう。
さて、話を入学前に戻そう。幼稚園も保育園も知らなかった野生児のぼくが、小学校などいうものに激しく抵抗したことは、ぼく自身が覚えている。泣き叫びながら母に引きずられて学校まで連れて行かれた記憶がある。
裏山にあたるタニゴの家からここに通った記憶がないのは、漁港の側に引越したからだった。毎日長い石段を登って登校し、帰りはリズミカルに走り下りていた。新しい借家は、今思うと掘っ建て小屋、屋根はトタンでガラス窓もないバラックであったが、場所は地域の中心地、よろず屋や豆腐屋のすぐ側であった。この豆腐屋さんには後に大いにお世話になることになる。
小学校低学年時代は、ある一つの出来事だけが残り、後は忘れ去られている。それは参観日だった。朗読しろというので、ぼくは立って読んだ。「よく読んできましたね」と先生はおっしゃった。「いいえ、読んできませんでした」とぼくは答えた。それは事実だったから、ぼくはそう答えたのだろう。見ていた親達がどっと笑った。すると先生が突然、烈火の如く怒り、「あなたは、自分ができると思ってるんじゃないのね!」と叫ばれたのだった。意外であり、驚いたので、それが特に記憶に残ったのか。その女の先生も、いろいろがんばって教えてくださったに違いないのだが、それだけしか記憶に残っていないとは気の毒なことだ。ぼくも今同じ仕事をしているが、教壇でギターを弾いていた変なおじさんとしてしか残らないに違いない。
もっとも、その先生にそれだけ言われたということは、相当生意気な子どもであったのかも知れない。ぼくは早くから字を読めたので「村の神童」扱いされ、ちやほやされていたので、大いにあり得ることだった。ただぼくは、音読するのに練習が必要だという発想はなく、家で声を出して読んだ記憶はない。
さて、村の学校の勉強はそれほど難しいものではないということは分かったが、決しておもしろいものではなく、ぼくは学校が終わるや否や石段を跳んで駆け下りて帰った。]]>
ラジオが歌を刷り込んだ (自分語り3)
http://pororompa.exblog.jp/4741878/
2006-12-16T13:53:00+09:00
2013-04-07T23:51:47+09:00
2006-12-16T13:53:04+09:00
pororompa
自分語り
親父が死んだのが3歳の時だったか4歳だったかはっきりしなかったのだが、去年兄が死んだ時戸籍を確かめたら、3歳の終わり頃だった。それから入学までの2年半を、ぼくはこの谷間の家で暮らした。もちろん幼稚園も保育園も行かなかった。母は水産加工場に仕事に出ていたから、祖母が見てくれていたものと思う。
母が父の死という大きな事件を乗り越えて生きていこうとしていた矢先、今度は母の妹夫婦が子供二人を残して相次いで亡くなった。結核だった。そんなにも人が簡単に死んでいった時代だったのだろうかと驚く。残されたぼくのいとこに当たる二人の兄弟は、上が兄と同い年、弟がぼくの一つ上だった。弟の方の号泣する声が毎晩のように谷間の夜にこだましていた。ぼくのように母がいるのと、いきなり両親とも亡くした違いは大きい。二人は宮崎市の養護施設に預けられた。
母には妹の他に、姉もいた。母の家では、母と妹が生まれる前はなかなか子供に恵まれなず、よそから養子としてもらわれて来たということだった。血の繋がりはないが、親戚というともうそこしかなかった。近くにあったその家の3人の子供とは、いとことして親しくしていた。その家もまた父親がいなかった。結局子供の頃ぼくの周りには、父親も爺さんもいなかった。ある意味で特殊な環境だった。ぼくは今でも父的な権威で頭からガーッと来られるのが苦手だ。ぼくは誰かから強制されることがあまりなかった。悪く言えばわがまま、よく言えば自主的で自立的な性格が形成されたと思う。
性格形成と言えば、末っ子で、しかも兄とは5歳、姉とは10歳の開きがあったことも大きかったかもしれない。ぼくはずいぶん早くから字を覚えたらしく、兄や姉も面白がっていろいろ教え込んだのだろう。姉の友人が来て、よく覚えていないが何か読まされたり、ちやほやされたりした記憶がある。よくある「村の神童」的な扱いになっていたようだ。上の世代の苦労や悲しみを知らず、世の中の厳しさも分からず、小学校入学までの日々を、ぼくは温かい谷間の村の日溜まりで一つ下のいとこと毎日遊んで過ごした。
貧しいはずのぼくの家に、ラジオがあった。棚の上に大きな木の箱が乗っていて、そこから音が出ていたような気がする。モダンで派手好みだったという叔母の遺品だったのかもしれない。そこから流れてくる流行歌や洋楽に、早くからぼくは興味を持ったようだ。
今、手元にある「青春歌年鑑」というCDで調べてみると、3・4歳だった頃はやった流行歌に、聞き覚えのある懐かしい曲がいっぱい並んでいる。哀調を帯びた「ワーラーニーマミレテヨー」という歌い出しが印象的な三橋美智也の「達者でナ」、「アーリガータヤ アリガタヤー」というアナーキーなリフが強烈に耳に残る守屋浩の「有難や節」、「コユビトコユービ カラマセテー」というソプラノの美声が何とも言えない島倉千代子の「恋しているんだもん」、「マドハー ヨーツユニヌーレテー」と渋く歌い出す小林旭の「北帰行」、そして坂元九の「上を向いて歩こう」、橋幸夫の「南海の美少年」…。
5歳だった1962年になると知っているのばっかりだ。中でも橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」は最高だった。何か未来に漠然と希望を感じるような歌だった。そして「キンミニハキミノー」と鼻にかかった声で歌う北原謙二の「若い二人」、しっとりとスウィングするフランク永井の「君恋し」、何かよく分からない英語がかっこいい弘田三枝子の「ヴァケイション」や中尾ミエの「可愛いベイビー」、どれも幼い脳味噌にしっかりと刷り込まれたのだった。
このころのことで特に鮮明に覚えていることがある。銭湯に行った帰り道に、小林旭のプロマイドを買ってもらったことである。ずっと親父の葬式の時に熊本から来た親父の親戚に買ってもらったと思っていたのだが、時代が合わない。1周忌か何かだったのかもしれない。大きな下敷きのようなもので、裏に「北帰行」の歌詞が載っていた。その喜びは鮮明に記憶している。今の子供にとってのポケモンやムシキング、それがぼくには歌だったのだ。]]>
母の生まれ育った村で (自分語り2)
http://pororompa.exblog.jp/4733482/
2006-12-14T22:47:00+09:00
2006-12-16T13:55:39+09:00
2006-12-14T22:47:48+09:00
pororompa
自分語り
母はこの村で生まれ育ったという。大正14年生まれで、年齢は昭和の年と大体同じだった。つまり、青春時代が戦時の真最中で成人の年が終戦という、運の悪い世代だった。戦後も望まない結婚をさせられ、早々と離婚していた。十違う異父姉は戸籍上は「黒木」という姓だとかいう話だった。
再婚しても父が瀕死の病で入院する羽目となり、母は姉と兄とぼくの3人を祖母にあずけて隣町の病院に泊まり込んでいた。一番小さかったぼくだけは連れて歩くことが多かったのだろう、この病院のことが遠い記憶にある。不思議に父のことは記憶にない。蟹を捕って遊んだことだとか、近くの駄菓子屋だとかが記憶の断片として残っている。「グリコのおまけだけとってキャラメルは寝ている父に向かって放り投げていた」とか、「選挙カーの連呼を真似したり皇太子結婚のニュースを叫んで回ったりしていた」という話を母はよく話していた。
苦労の固まりのような人生を送った母だが、基本的に明るく陽気で冗談好きな人間であったことは、ぼくにとっては救いだった。ただ、母から引き離され寂しい思いをしていた兄と、深刻さを感じないまま母の側で可愛がられていたぼくとでは、性格形成に差が出たかも知れない。
小学校に入る前までぼくの家があったのは、この村の外れにある「タニゴ」と呼ばれる一角だった。タニゴの「タニ」は谷の意味であったにちがいない。山が平地になる所に開けた小さな谷間に、細い溝のような小川が流れていた。上の地図の、赤い楕円の辺りにその借家はあったはずだが、今はもうない。今年ふと気が向いて行ってみたら、家があった形跡もなく、辺りは雑草が生い茂る荒れ地だった。四、五軒はあった家も、廃屋が残るばかりで、人が住むような家は一軒も残っていなかった。
この家に暮らしていたのは、ぼくと兄と姉、そして母と祖母である。父も現場暮らしが多かっただろうが一応入院まではここに暮らしていたはずだ。子供の頃何となく不思議に感じていたことがあった。他の家には農機具とかあるのに自分の家には無い。田植えをしたこともないし牛に餌をやることもない。何となくそこに根を張っていないような感じなのだ。粗末な家だった。家には土間があり囲炉裏があったような気がする。裏山で栗や山菜を採ってきては、祖母がちょっとした加工をしていた。鶏もいた。生産的な臭いはその程度だった。
何でも山林地主であったのを先祖が飲み潰したという話だった。母の父は若い頃は船乗りで、後には桶を作っていたという。この幸脇という村は、耳川という大きな川の河口にあり、対岸は昔は海上交通の拠点として栄えた美々津である。大阪便が往き来するにぎやかな町だったというから、その時代はそういう仕事もいっぱいあったのだろう。この人も酒飲みで子孫に財を残すような人ではなかったというが、奔放な言動の母からは、何となくそういう感じは想像できた。堅実さに欠け享楽的な我が家のトーンは、こちらの血かも知れないという気がする。
谷間のわびしい家に、とうとう治ることのなかった父の亡骸が帰ってきた日のことは、遠いかすかな記憶に残っている。母にとっては辛く厳しい時代の始まりだったわけだが、父を知らないぼくは、無邪気なものであったろう。ぼくに父を亡くした悲しさはなかった。ぼくにとっては、父は最初からいなかった。]]>
よく分からない親父のこと (自分語り1)
http://pororompa.exblog.jp/4716721/
2006-12-11T23:37:00+09:00
2006-12-16T13:55:58+09:00
2006-12-11T23:37:40+09:00
pororompa
自分語り
ぼくは1956年12月10日、宮崎県日向市の幸脇という漁村に生まれた。母はその村の出身だったが、父は熊本県出身だという以外よく分かっていない、謎の多い人物である。ぼくが3歳の時に病気で亡くなっているし、写真さえ残っていない。母が時々思い出しては語っていた断片的な話をつなげて、ぼくは父を想像するしかなかった。
まず驚くのは、ぼくの姓「松田」は父の姓ではないということである。父は「出田盛造」という名前であったが、母と結婚する時「松田」を名乗った。それだけでも珍しいことだと思うのだが、その理由が戸籍上の手続きが面倒だったためらしい。それにしても、男親の姓を名乗るのが当たり前の社会の中で、面倒だからとあっさり妻の姓を名乗るだろうか。これだけでもある種の変わった人物を想像できる。
この「出田」という姓であるが、「いづた」と読むのか「いでた」と読むのかさえよく分からない。「いでさん」と呼ばれていたと母が話していたような気もするので、「いでた」だったのだろうか。そうするとぼくの名前は、「いでたそういちろう」だった可能性もあるわけだ。あまりいい響きとは思えないので、ぼくは秘かに変人親父の判断に感謝している。インターネットで検索してみると、見つかることは見つかるがあまり多い姓ではないようだ。この姓を名乗っている方を見ると、遠い親戚ではないかというような親しみを覚える。
父の仕事は「トビショク」であるといつも母は話していた。ぼくは子供心に不思議な感じがした。いかにも男性的で屈強な肉体労働者が想像できるが、ぼくはそういうたくましさからほど遠かった。よく聞くと、橋を架ける工事のワイヤー職人であったらしい。橋を架ける工事現場を渡り歩く内に、母と知り合ったようだ。「北海道で騙されてタコ部屋に入れられたが、見張りと仲良くなり脱走した話を聞いた」とか、「風呂に入る時は手ぬぐいで入れ墨を隠していた」とか母は話していたので、相当凄い世界で生きてきた人ではあったのだろう。しかし、荒っぽい感じではなく、詩を書いたりする面もあったという。父が亡くなった時に、そういった作品も燃やしてしまったことを、母はいつも後悔していた。
また、「生家が武家の末裔で、若い頃その堅苦しさに反発して家を出たようだ」という話も聞かされた。「古い着物がたくさんあって旅役者の一座が時代劇の衣装に使いたいと買いに来た」などという話も、何か遠い夢物語のように聞いていた。
兄はぼくより5つも上なので、父と共有する思い出もあり、父への興味とこだわりが強かった。わざわざ熊本まで出かけて「ルーツ」を調べたこともあった。熊本県菊池地方の武家がそうらしいとか語っていたが、侍が先祖だから偉いという発想もなかったのでぼくは聞き流していた。今何気なくインターネットで検索してみるとこんなことが書いてある。それから、どうも五高出身で、何か政治活動もしていたような「インテリ崩れ」だったらしいというような話もしていたが、兄は物事を大袈裟に言うような所もあったので、真相はよく分からない。
父のことでもう一つ聞き逃せないのは、先妻がいたが身籠もったまま空襲の犠牲になったという話である。妻と子を一度に奪われて狂ったようになり、社会からドロップアウトしたようだと母は話していた。でもそれ以前に、橋梁工事の技術者となったのは、徴兵忌避のねらいがあったのではないだろうか。あの時代に生きていて兵隊の話が出てこない。
いずれにしろ、若い頃は古い封建制や戦争に翻弄され、中年になって半ば世捨て人的に暮らしている内に母と出会い、第二の人生を始めた所に病気で死んだというのが父の人生だったのだろう。
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50歳
http://pororompa.exblog.jp/4707769/
2006-12-10T15:50:00+09:00
2006-12-11T19:03:18+09:00
2006-12-10T15:50:11+09:00
pororompa
自分語り
50歳になった。だからどうした、という感じである。だがしかし、50。何となく重い数字ではある。半世紀・・・。関係ねえか。人生50年? 兄貴や友人が死んだからなあ。でも老人というわけじゃない。50になってみると、下から見ていた時よりは精神的には50は若い。
40代は楽しかった。予想以上に40代を楽しんで駆け抜けた。我が子の巣立った後の50代はまた違ったものになるだろうと思っている。楽観している。楽しみたいと思っている。
その前に一つの区切りとして、自分を語ってみようと思う。まずは自分のため。書くことによって気づくことは多い。そしてぼくの家族やぼくに興味を持つ知り合いの人に向けて。それからぼくもたまにぼくの世代の人の回想記を読むが、そんなふうに誰かが興味を持って読んでくれるかもしれない。書く意味はありそうだ。]]>
ブログという形
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2005-06-22T22:24:30+09:00
2005-06-22T22:26:16+09:00
2005-06-22T22:23:08+09:00
pororompa
自分語り
いつも見に行っている知人のブログでこの形に興味を持ったので、試しに自分でも始めてみることにした。一応自分のサイトは持っているし、それはそれで役割を果たしているので、その付属サイトということにする。
BBSも付けていたんだが、書くのはやはり自分がほとんどだ。でもたまにコメント書いてくれる人がいるのは楽しいので、その窓も開けておきたい。その辺のバランスがこのブログという形はちょうどいい。
それから、ブログで面白いと思ったのは、いろんなテーマで書き連ねても、話題別に振り分けてくれることだ。最初から形式を考えなくていい。
このブログでは、これまで自分のサイトで書いていた「音盤的日々」というCDを聴いての随想を中心に、様々なことを思いつくままに書いてみることにする。
一応最初の書き込みなので、自己紹介を。
子どもの歌を作っている小学校教員です。これまで、3枚の作品集を自家制作して発表しています。県内のあちこちの小学校で、「今月の歌」などに採用されて歌われているようです。また、音楽センター社の「クラスで歌う子どもの歌」シリーズに採用されて全国で歌われています。
(詳しいプロフィールは、「ぽろろんぱーるーむ」をご覧ください。)
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