よく分からない親父のこと (自分語り1)
2006年 12月 11日
まず驚くのは、ぼくの姓「松田」は父の姓ではないということである。父は「出田盛造」という名前であったが、母と結婚する時「松田」を名乗った。それだけでも珍しいことだと思うのだが、その理由が戸籍上の手続きが面倒だったためらしい。それにしても、男親の姓を名乗るのが当たり前の社会の中で、面倒だからとあっさり妻の姓を名乗るだろうか。これだけでもある種の変わった人物を想像できる。
この「出田」という姓であるが、「いづた」と読むのか「いでた」と読むのかさえよく分からない。「いでさん」と呼ばれていたと母が話していたような気もするので、「いでた」だったのだろうか。そうするとぼくの名前は、「いでたそういちろう」だった可能性もあるわけだ。あまりいい響きとは思えないので、ぼくは秘かに変人親父の判断に感謝している。インターネットで検索してみると、見つかることは見つかるがあまり多い姓ではないようだ。この姓を名乗っている方を見ると、遠い親戚ではないかというような親しみを覚える。
父の仕事は「トビショク」であるといつも母は話していた。ぼくは子供心に不思議な感じがした。いかにも男性的で屈強な肉体労働者が想像できるが、ぼくはそういうたくましさからほど遠かった。よく聞くと、橋を架ける工事のワイヤー職人であったらしい。橋を架ける工事現場を渡り歩く内に、母と知り合ったようだ。「北海道で騙されてタコ部屋に入れられたが、見張りと仲良くなり脱走した話を聞いた」とか、「風呂に入る時は手ぬぐいで入れ墨を隠していた」とか母は話していたので、相当凄い世界で生きてきた人ではあったのだろう。しかし、荒っぽい感じではなく、詩を書いたりする面もあったという。父が亡くなった時に、そういった作品も燃やしてしまったことを、母はいつも後悔していた。
また、「生家が武家の末裔で、若い頃その堅苦しさに反発して家を出たようだ」という話も聞かされた。「古い着物がたくさんあって旅役者の一座が時代劇の衣装に使いたいと買いに来た」などという話も、何か遠い夢物語のように聞いていた。
兄はぼくより5つも上なので、父と共有する思い出もあり、父への興味とこだわりが強かった。わざわざ熊本まで出かけて「ルーツ」を調べたこともあった。熊本県菊池地方の武家がそうらしいとか語っていたが、侍が先祖だから偉いという発想もなかったのでぼくは聞き流していた。今何気なくインターネットで検索してみるとこんなことが書いてある。それから、どうも五高出身で、何か政治活動もしていたような「インテリ崩れ」だったらしいというような話もしていたが、兄は物事を大袈裟に言うような所もあったので、真相はよく分からない。
父のことでもう一つ聞き逃せないのは、先妻がいたが身籠もったまま空襲の犠牲になったという話である。妻と子を一度に奪われて狂ったようになり、社会からドロップアウトしたようだと母は話していた。でもそれ以前に、橋梁工事の技術者となったのは、徴兵忌避のねらいがあったのではないだろうか。あの時代に生きていて兵隊の話が出てこない。
いずれにしろ、若い頃は古い封建制や戦争に翻弄され、中年になって半ば世捨て人的に暮らしている内に母と出会い、第二の人生を始めた所に病気で死んだというのが父の人生だったのだろう。
by pororompa | 2006-12-11 23:37 | 自分語り | Comments(0)