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semスキン用のアイコン01 井上陽水 「空想ハイウェイ ACTⅡ」 semスキン用のアイコン02

  

2005年 12月 09日

 いつまでも死者の影を引きずっていては生きている者も身が持たない。そうは言っても、死者は生活の折々に甦ってきては意識の端っこで語りかけてゆくのだろう。そうして「去る者は日々に疎し」の諺通りいつかだんだん遠ざかって行く。

 葬式という非日常から日常に戻ってみると、溜まった仕事であるとか衝撃的なニュースなんかが待ち受けていて、感傷に浸る暇はなかった。最初の休日である今日は、ただだらだらと過ごした。脳が洗濯されてゆくようだ。

 夕方に、以前妻が録画して置いてくれた井上陽水の「空想ハイウェイ ACTⅡ」という番組を観た。今回は再放送で、本放送の時もチラッと観ている。昔のフォーク仲間が30年後に集まったという趣向で、高田渡、三上寛、加川良、友部正人、小室等の5人がゲストで呼ばれていた。陽水も含めて、ぼくの人生にもリアルタイムで影響を与えてくれた面々である。

 高田渡は、死んだ兄貴にそっくりである。高田渡自身がこの番組の後に亡くなっていることもあって、どうしても兄貴に重ね合わせて観てしまう。番組は、ある程度時間を取って本音で語らせるので、彼のハチャメチャなイメージの裏にある、まじめで濁りのない感覚と、拘り、そして優しさがじわじわと染み出てくる。若い頃の貧しさと正義感、反骨精神。まっとうなやつはみんな左翼だった時代、高田渡の出発点もそこにあった。「声高に政治を歌うより、身近な生活を歌う」と言う中にも、やはり筋は通っていた。しょうもない酔っぱらいとなっても、ものの考え方の根底にそれは残っていた。

 加川良という人は、表面的な模倣者だったのか、この番組では一番影が薄かった。軽薄といったら言い過ぎだろうか。歌うべきものを持っていない。本人自身からもそれを裏付ける発言があり、同席の小室等が意外で残念そうな表情をしたのが印象的だった。あの素晴らしい「教訓Ⅰ」はもともと彼の作ではないのは知っていたが、少なくともその深みを理解し共感して歌っていると思っていたのに。

 三上寛は表現者としては面白いけれど、あくが強すぎて、喋れば喋るほどほかのメンバーの良いところを消してしまう。番組はそこそこ盛り上がるかもしれないが、底は浅くなる。現実にもこういうタイプの人物はいるが、しばらくその場にいるとうんざりする。もう分かったからちょっと黙っててくれと言いたくなる。高田渡がそれを言ったのがおかしかった。

 この中で陽水が一目置いているのが友部正人だろう。自分の曲で友部に詞を頼んだものがある(アルバム「あやしい夜を待って」収録の「海はどうだ」)のを見ても分かる。
 「分かる人に分かってもらえばよい」とでも言うかのように、淡々としていたのが逆に印象的だった。ここは一つ陽水も「海はどうだ」を歌ってほしかった。

 なぎらけんいちが「日本フォーク私的大全」で正しく指摘しているとおり、井上陽水の音楽はフォークではない。彼のアルバムはほとんど持っているけれど、フォークの一人と思って聴くことはない。ポップなサウンドで売れまくった陽水の歌は、高田渡と一緒に括るにはあまりにも異質だ。彼のルーツは本人も言うとおりビートルズ。ただ時代が重なったために、いっしょくたにされたのだろうと思っていた。

 けれども、今回の番組を観て、少し認識が変わった。陽水は「フォーク」の面々とただ思い出を共有しているだけでなく、精神的な部分で共感できる面をずいぶん持っているのではないかという気がしてきた。彼らの強烈な刺激が、創作にかなり影響を与えたのではないか。そんなことを感じた番組だった。

 ぼく自身にとっても、懐かしい時代を振り返らせながら、親しい者との別れで疲れた心を少しばかり癒してくれた、気持ちのよい番組だった。

by pororompa | 2005-12-09 22:35 | こころの糧 | Comments(2)

Commented at 2005-12-14 21:42 x
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Commented at 2005-12-14 22:58
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