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semスキン用のアイコン01 【音盤的日々 89】 大貫妙子 / クリシェ semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 30日

e0006692_22573492.jpg 中古CD店で300円引きセールをやっていたので、一昨日5,6枚買ってきた。これはその一枚。大貫妙子は好きで10枚ぐらい持っているが、どれも悪くないんだけど「これだ!」というのがない。その中でこの「クリシェ」はかなり上位に来るんではないか。もっと早く聴いておけばよかったと思った今回の出合いである。

 まず、坂本龍一と組んだ初めの4曲がいい。と言っても、「黒のクレール」と「ピーターラビットと私」は別の盤で既に聴いてはいた。この「ピーターラビット」はアレンジがよくて、前から気に入っていた曲だ。特にドラムが気持ちよい。打ち込みなんだろうがいい感じだなあと前から思っていたら、何と教授ご本人の演奏だった。ぼくのポップス童謡作りの一つのお手本となっている曲である。

 5曲目から後の、フランスのアレンジャーやミュージシャンとやったものも悪くはない。シャンソン風の⑥などいい味を出している。でも、全体にもうちょっと躍動感というか、切れが欲しいかな。

 この人は初期の作品なんかを聴くとヴォーカルがちょっと聴きづらいが、この作品の頃はもう安心して聴けるし、後になるほど良くなっている。もともといい声をしているが、それだけでなく歌い手としても精進してきたことが感じられる。

 全体にややおとなしいが、この人のよさが出た品のよい好盤。
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by pororompa | 2006-12-30 23:27 | 音盤的日々 | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 村上“ポンタ”秀一 「自暴自伝」 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 30日

e0006692_21551926.jpg 読めば読むほどイヤな男である。でも読めば読むほど面白い。ドラマー、ポンタ村上の自伝を一気に読んだ。ちょうどぼくが親しんできた時代と重なるミュージック・シーンの裏話は、どれも面白く、興味深いエピソードが満載だ。

 でも読みながら不思議に思った。これだけ活躍していて、この人のプレイについてまるで印象がない。1万枚を超える録音をした、日本一売れっ子のスタジオ・ミュージシャンで、あらゆるジャンルで叩いてきたというが、はて?どんなプレーヤーだったっけと思ってしまった。スタジオ・ミュージシャンというのは前に出てこないから、知らない内に聴いてるんだろうけど、それでも、フォーク、ロック、歌謡曲、ジャズ、オレもいろいろ聴いたけどなぁ・・・、と思ってしまった。

 唯一覚えているのは、レザー・ディスクで持っていた井上陽水のライブ盤「クラムチャウダー」だが、あれはまずギターの大村憲司の存在感が際立っていた。ドラムに確かに村上はいたが、同じリズム・セクションならパーカッションの浜口茂外也の方がずっと印象に残っている。

 もともとぼくはドラムという楽器が嫌いだった。ドラムの入っていない音楽を好んで聴いていた。ドラムの良さを本当に感じたのは、ジャズを聴き出してからだ。エルビン・ジョーンズとか聴いて認識が変わった。ずっと後になってから自分でも打ち込みをやるようになって、リズム楽器の気持ちよさを知った。村上の凄さに気が付かなかったのは、自分がそういう音楽的嗜好の人間だからだろうか。

 でも違うよな。この本の中でポンタが一目置いてる林立夫とか、昔から好きだったよな。歌の味わいを壊さないセンスのいいタイコだなと思っていたもの。ドラマーとしてはあまり話題にならない松本隆のドラムとかも好きだった。自分の好きな歌の中で効果を上げているドラムは印象に残っている。

 思うに、この人の音楽の好みとか、音楽に向かう姿勢が好きじゃないんだね。調べてみると、車で聴くぐらいしか使い途のないあの退屈なフュージョンとかを、好んで叩いてる人だ。誰よりも正確に、速く叩けたりするのかも知れないけど、ほんで?という感じの音楽だ。うまいんだろうけど、それだけだね。ぼくにとっては。

 確かに面白い本だった。でも、「読めば読むほどイヤな男」と感じたその部分は、多分その人の音楽にそのまま投影していたのだろう。うまけりゃいいってもんじゃないところが音楽は面白い。

by pororompa | 2006-12-30 22:39 | 読書的休日 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 またも小野 《全日本選手権準決勝 浦和2-1鹿島》 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 29日

e0006692_20301223.jpg 打った瞬間入らないと思った。斜め後ろからのパスを、ボールを迎え入れるようにノートラップでシュート。打ったのは小野伸二。軽く打ったように見えた。これで入ったらちょっとおいしすぎる。ボールはキーパーを巻くようにして右ポストに。次の瞬間、網を揺らしているではないか。外かと思ったが違う。入っている。ベロを出して笑いながら走り出す小野。何という軽やかなゴールか。

 後半になって鹿島も追いついた。これは1対1で延長かと思いながら見ていると、またしても小野伸二。ゴール前を横切りながら軽くポンテにヒールでパス。写真はテレビに映ったその場面だ。相手ディフェンダーがとまどうところをポンテがシュートして2点目。これが決勝点となった。

 あまりにも軽やかなので、YouTubeでいい時の小野のプレイを見た。さすがに凄い。今日のプレイどころじゃない。それでも、何かが戻りつつあるのではないか、彼の中で。もちろん足の状態は厳しいのだろう。無理してほしくない。それでも・・・。

 心配しつつも、元日のテレビの前で小野ショーがまた観られることを願っている自分がいる。

by pororompa | 2006-12-29 11:59 | TVサッカー観戦記 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 小野伸二 久々のきらめき 《全日本選手権準々決勝 浦和3-3磐田》 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 24日

e0006692_1921157.jpg 面白い試合だった。久しぶりに主役を張ったのは小野伸二。後半から出場して見事な2ゴール。

 小野がどんな状態でいるかを知る全てのファンは、複雑な思いでこの活躍を見ただろう。もちろん嬉しくないはずがない。1点目の競りながらのヘッドも痛快だったが、2点目のループ・シュートなどはいかにも小野だ。楽しい。スカッとする。

 でも、この日本サッカー界の至宝が戦っている本当の相手は、けがであり、激しい痛みだ。「もう出ないでほしい」、「ゆっくり治して!」、ファンサイトにはそんな悲痛な書き込みも見られる。

 この選手が健康体なら、バルセロナにいてもおかしくはないとぼくは本気で思っている。まちがってもレッズの控えにいるような選手ではない。よほどけがが酷いのだろうし、このまま治らない可能性だってあるのかもしれない。無理はしてほしくない。

 「スーパー・サブ」として後半途中からFWで使う使い方もあると思う。不調だと言われる試合でも、最近はいつも得点への意欲が感じられる。何でもできる選手だし、いろいろな可能性を持っているのではないか。オフにしっかり治療に取組み、無理のないやり方で復活してくれることを願っている。時には弱点だとも評される性格の良さも含めて、ぼくはこの選手が好きだ。

by pororompa | 2006-12-24 19:55 | TVサッカー観戦記 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ホンダロック JFL入替戦 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 17日

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 JFLの入替戦ホンダロック対FC岐阜の第1戦を観に、都農まで行ってきた。一度観戦したのが縁で、ホンダロックのにわかサポーターとなりかけているが、インターネットを見てちょっとひるんだ。相手チームは気合いの入り方が違う。監督が戸塚? あの読売の戸塚か? そんでもって森山? あの日本代表の? 小島宏美って、こんなとこいたの・・・。どうやらJリーグに向かって驀進するチームのようだ。それにしても都農はちと遠い。やめようかと思っていたが、相手チームのサポーターははるばる岐阜からバスツアーで来るそうな。遠さの桁が二つぐらい違う。よし行ってやるか、ということになって急遽妻と出かけた。

 会場の藤見運動公園は入り口が分かりにくかったが、何とか十分遅れぐらいで到着。昔小学生の頃遠足で来たような気もする。思ったほどひどい競技場ではなかったが、岐阜から飛行機で来た人は困っただろう。

 試合は、相手が格上という感じはするものの、立ち上がりはそれほど恐さを感じなかったが、前半早々FWの下木屋選手がレッド・カードになって防戦一方となってしまった。それでも前半は0-0で持ちこたえたのだが、後半に4点食らって万事休す。特に、最後に出てきた森山のシュートが「とどめ」という感じで、ずっとサポートしてきた人は辛かっただろう。森山はさすがに、ベンゲルやストイコビッチとやってきたキャリアはだてではないという動きだった。

 まだアウェー戦が残っているが、現実的な可能性としては残留は厳しい。会場のファンからは「また九州リーグから立て直せばいい」という声も聞かれたが、九州リーグもJを目指すチームがひしめいてレベルの高そうなリーグである。来シーズンも見に来ようと思いながら会場を後にした。

by pororompa | 2006-12-17 23:24 | ホンダロックにわかサポ | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 【音盤的日々 88】 BUDAPEST CLARINET QUINTET / CLARINET EVERGREENS semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 16日

e0006692_20572318.jpg 教育基本法を無理矢理変える法案が通って、ぼくには憂鬱な日である。「基本」は簡単に変えてはいけないから「基本」ではないのか。管理職でさえ半数以上が反対しているものをごり押ししようとする人達は、何を考えているのか。これから日本はどこへ向かっていくのか。新聞はたいした扱いをしておらず、一般の人も関心はないのだろうが、何となく将来に漠然と不安を感じる。国家が愛国心だとか言い出すとろくなことはない。

 オークションで買ったJ.D.サウザー の「YOU'RE ONLY LONELY」が送って来たが、あまり聴く気にならない。大学で演劇をしている息子から、劇で使う音楽の相談があったので、PCで話しながらいろいろ聴いた。普段あんまり聴かないのや、気色悪いのも、劇で使えるかもしれないのでいろいろ試した。

 これはまだ息子には聴かせてないが、その中の一枚である。クラリネットだけの5人編成でやっているようだ。ボーッとしているが、今日のような日にはいい。選曲が面白い。「熊ん蜂」から始まって、モーツァルトにベートベン、シュトラウスのポルカにアルベニスの「タンゴ」、そして「トロイメライ」に「ユモレスク」。ドビュッシーやラヴェルもあれば、スコット・ジョプリンのラグタイムもある。「イパネマの娘」、「ミスティ」、「モンティのチャールダーシュ」なんてのまで入っている。でもどれも刺激しない。憂鬱な日の音楽だ。
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by pororompa | 2006-12-16 20:54 | 音盤的日々 | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 ラジオが歌を刷り込んだ (自分語り3) semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 16日

e0006692_13521549.jpg 親父が死んだのが3歳の時だったか4歳だったかはっきりしなかったのだが、去年兄が死んだ時戸籍を確かめたら、3歳の終わり頃だった。それから入学までの2年半を、ぼくはこの谷間の家で暮らした。もちろん幼稚園も保育園も行かなかった。母は水産加工場に仕事に出ていたから、祖母が見てくれていたものと思う。

 母が父の死という大きな事件を乗り越えて生きていこうとしていた矢先、今度は母の妹夫婦が子供二人を残して相次いで亡くなった。結核だった。そんなにも人が簡単に死んでいった時代だったのだろうかと驚く。残されたぼくのいとこに当たる二人の兄弟は、上が兄と同い年、弟がぼくの一つ上だった。弟の方の号泣する声が毎晩のように谷間の夜にこだましていた。ぼくのように母がいるのと、いきなり両親とも亡くした違いは大きい。二人は宮崎市の養護施設に預けられた。

 母には妹の他に、姉もいた。母の家では、母と妹が生まれる前はなかなか子供に恵まれなず、よそから養子としてもらわれて来たということだった。血の繋がりはないが、親戚というともうそこしかなかった。近くにあったその家の3人の子供とは、いとことして親しくしていた。その家もまた父親がいなかった。結局子供の頃ぼくの周りには、父親も爺さんもいなかった。ある意味で特殊な環境だった。ぼくは今でも父的な権威で頭からガーッと来られるのが苦手だ。ぼくは誰かから強制されることがあまりなかった。悪く言えばわがまま、よく言えば自主的で自立的な性格が形成されたと思う。

 性格形成と言えば、末っ子で、しかも兄とは5歳、姉とは10歳の開きがあったことも大きかったかもしれない。ぼくはずいぶん早くから字を覚えたらしく、兄や姉も面白がっていろいろ教え込んだのだろう。姉の友人が来て、よく覚えていないが何か読まされたり、ちやほやされたりした記憶がある。よくある「村の神童」的な扱いになっていたようだ。上の世代の苦労や悲しみを知らず、世の中の厳しさも分からず、小学校入学までの日々を、ぼくは温かい谷間の村の日溜まりで一つ下のいとこと毎日遊んで過ごした。

 貧しいはずのぼくの家に、ラジオがあった。棚の上に大きな木の箱が乗っていて、そこから音が出ていたような気がする。モダンで派手好みだったという叔母の遺品だったのかもしれない。そこから流れてくる流行歌や洋楽に、早くからぼくは興味を持ったようだ。

 今、手元にある「青春歌年鑑」というCDで調べてみると、3・4歳だった頃はやった流行歌に、聞き覚えのある懐かしい曲がいっぱい並んでいる。哀調を帯びた「ワーラーニーマミレテヨー」という歌い出しが印象的な三橋美智也の「達者でナ」、「アーリガータヤ アリガタヤー」というアナーキーなリフが強烈に耳に残る守屋浩の「有難や節」、「コユビトコユービ カラマセテー」というソプラノの美声が何とも言えない島倉千代子の「恋しているんだもん」、「マドハー ヨーツユニヌーレテー」と渋く歌い出す小林旭の「北帰行」、そして坂元九の「上を向いて歩こう」、橋幸夫の「南海の美少年」…。

 5歳だった1962年になると知っているのばっかりだ。中でも橋幸夫・吉永小百合の「いつでも夢を」は最高だった。何か未来に漠然と希望を感じるような歌だった。そして「キンミニハキミノー」と鼻にかかった声で歌う北原謙二の「若い二人」、しっとりとスウィングするフランク永井の「君恋し」、何かよく分からない英語がかっこいい弘田三枝子の「ヴァケイション」や中尾ミエの「可愛いベイビー」、どれも幼い脳味噌にしっかりと刷り込まれたのだった。

 このころのことで特に鮮明に覚えていることがある。銭湯に行った帰り道に、小林旭のプロマイドを買ってもらったことである。ずっと親父の葬式の時に熊本から来た親父の親戚に買ってもらったと思っていたのだが、時代が合わない。1周忌か何かだったのかもしれない。大きな下敷きのようなもので、裏に「北帰行」の歌詞が載っていた。その喜びは鮮明に記憶している。今の子供にとってのポケモンやムシキング、それがぼくには歌だったのだ。

by pororompa | 2006-12-16 13:53 | 自分語り | Trackback | Comments(2)

semスキン用のアイコン01 母の生まれ育った村で (自分語り2) semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 14日

e0006692_2245198.jpg 母はこの村で生まれ育ったという。大正14年生まれで、年齢は昭和の年と大体同じだった。つまり、青春時代が戦時の真最中で成人の年が終戦という、運の悪い世代だった。戦後も望まない結婚をさせられ、早々と離婚していた。十違う異父姉は戸籍上は「黒木」という姓だとかいう話だった。

 再婚しても父が瀕死の病で入院する羽目となり、母は姉と兄とぼくの3人を祖母にあずけて隣町の病院に泊まり込んでいた。一番小さかったぼくだけは連れて歩くことが多かったのだろう、この病院のことが遠い記憶にある。不思議に父のことは記憶にない。蟹を捕って遊んだことだとか、近くの駄菓子屋だとかが記憶の断片として残っている。「グリコのおまけだけとってキャラメルは寝ている父に向かって放り投げていた」とか、「選挙カーの連呼を真似したり皇太子結婚のニュースを叫んで回ったりしていた」という話を母はよく話していた。

 苦労の固まりのような人生を送った母だが、基本的に明るく陽気で冗談好きな人間であったことは、ぼくにとっては救いだった。ただ、母から引き離され寂しい思いをしていた兄と、深刻さを感じないまま母の側で可愛がられていたぼくとでは、性格形成に差が出たかも知れない。

 小学校に入る前までぼくの家があったのは、この村の外れにある「タニゴ」と呼ばれる一角だった。タニゴの「タニ」は谷の意味であったにちがいない。山が平地になる所に開けた小さな谷間に、細い溝のような小川が流れていた。上の地図の、赤い楕円の辺りにその借家はあったはずだが、今はもうない。今年ふと気が向いて行ってみたら、家があった形跡もなく、辺りは雑草が生い茂る荒れ地だった。四、五軒はあった家も、廃屋が残るばかりで、人が住むような家は一軒も残っていなかった。

 この家に暮らしていたのは、ぼくと兄と姉、そして母と祖母である。父も現場暮らしが多かっただろうが一応入院まではここに暮らしていたはずだ。子供の頃何となく不思議に感じていたことがあった。他の家には農機具とかあるのに自分の家には無い。田植えをしたこともないし牛に餌をやることもない。何となくそこに根を張っていないような感じなのだ。粗末な家だった。家には土間があり囲炉裏があったような気がする。裏山で栗や山菜を採ってきては、祖母がちょっとした加工をしていた。鶏もいた。生産的な臭いはその程度だった。

 何でも山林地主であったのを先祖が飲み潰したという話だった。母の父は若い頃は船乗りで、後には桶を作っていたという。この幸脇という村は、耳川という大きな川の河口にあり、対岸は昔は海上交通の拠点として栄えた美々津である。大阪便が往き来するにぎやかな町だったというから、その時代はそういう仕事もいっぱいあったのだろう。この人も酒飲みで子孫に財を残すような人ではなかったというが、奔放な言動の母からは、何となくそういう感じは想像できた。堅実さに欠け享楽的な我が家のトーンは、こちらの血かも知れないという気がする。

 谷間のわびしい家に、とうとう治ることのなかった父の亡骸が帰ってきた日のことは、遠いかすかな記憶に残っている。母にとっては辛く厳しい時代の始まりだったわけだが、父を知らないぼくは、無邪気なものであったろう。ぼくに父を亡くした悲しさはなかった。ぼくにとっては、父は最初からいなかった。

by pororompa | 2006-12-14 22:47 | 自分語り | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 よく分からない親父のこと (自分語り1) semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 11日

e0006692_18215834.jpg ぼくは1956年12月10日、宮崎県日向市の幸脇という漁村に生まれた。母はその村の出身だったが、父は熊本県出身だという以外よく分かっていない、謎の多い人物である。ぼくが3歳の時に病気で亡くなっているし、写真さえ残っていない。母が時々思い出しては語っていた断片的な話をつなげて、ぼくは父を想像するしかなかった。

 まず驚くのは、ぼくの姓「松田」は父の姓ではないということである。父は「出田盛造」という名前であったが、母と結婚する時「松田」を名乗った。それだけでも珍しいことだと思うのだが、その理由が戸籍上の手続きが面倒だったためらしい。それにしても、男親の姓を名乗るのが当たり前の社会の中で、面倒だからとあっさり妻の姓を名乗るだろうか。これだけでもある種の変わった人物を想像できる。

 この「出田」という姓であるが、「いづた」と読むのか「いでた」と読むのかさえよく分からない。「いでさん」と呼ばれていたと母が話していたような気もするので、「いでた」だったのだろうか。そうするとぼくの名前は、「いでたそういちろう」だった可能性もあるわけだ。あまりいい響きとは思えないので、ぼくは秘かに変人親父の判断に感謝している。インターネットで検索してみると、見つかることは見つかるがあまり多い姓ではないようだ。この姓を名乗っている方を見ると、遠い親戚ではないかというような親しみを覚える。

 父の仕事は「トビショク」であるといつも母は話していた。ぼくは子供心に不思議な感じがした。いかにも男性的で屈強な肉体労働者が想像できるが、ぼくはそういうたくましさからほど遠かった。よく聞くと、橋を架ける工事のワイヤー職人であったらしい。橋を架ける工事現場を渡り歩く内に、母と知り合ったようだ。「北海道で騙されてタコ部屋に入れられたが、見張りと仲良くなり脱走した話を聞いた」とか、「風呂に入る時は手ぬぐいで入れ墨を隠していた」とか母は話していたので、相当凄い世界で生きてきた人ではあったのだろう。しかし、荒っぽい感じではなく、詩を書いたりする面もあったという。父が亡くなった時に、そういった作品も燃やしてしまったことを、母はいつも後悔していた。

 また、「生家が武家の末裔で、若い頃その堅苦しさに反発して家を出たようだ」という話も聞かされた。「古い着物がたくさんあって旅役者の一座が時代劇の衣装に使いたいと買いに来た」などという話も、何か遠い夢物語のように聞いていた。

 兄はぼくより5つも上なので、父と共有する思い出もあり、父への興味とこだわりが強かった。わざわざ熊本まで出かけて「ルーツ」を調べたこともあった。熊本県菊池地方の武家がそうらしいとか語っていたが、侍が先祖だから偉いという発想もなかったのでぼくは聞き流していた。今何気なくインターネットで検索してみるとこんなことが書いてある。それから、どうも五高出身で、何か政治活動もしていたような「インテリ崩れ」だったらしいというような話もしていたが、兄は物事を大袈裟に言うような所もあったので、真相はよく分からない。

 父のことでもう一つ聞き逃せないのは、先妻がいたが身籠もったまま空襲の犠牲になったという話である。妻と子を一度に奪われて狂ったようになり、社会からドロップアウトしたようだと母は話していた。でもそれ以前に、橋梁工事の技術者となったのは、徴兵忌避のねらいがあったのではないだろうか。あの時代に生きていて兵隊の話が出てこない。
 
 いずれにしろ、若い頃は古い封建制や戦争に翻弄され、中年になって半ば世捨て人的に暮らしている内に母と出会い、第二の人生を始めた所に病気で死んだというのが父の人生だったのだろう。

by pororompa | 2006-12-11 23:37 | 自分語り | Trackback | Comments(0)

semスキン用のアイコン01 50歳 semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 10日

e0006692_1931644.jpg 50歳になった。だからどうした、という感じである。だがしかし、50。何となく重い数字ではある。半世紀・・・。関係ねえか。人生50年? 兄貴や友人が死んだからなあ。でも老人というわけじゃない。50になってみると、下から見ていた時よりは精神的には50は若い。

 40代は楽しかった。予想以上に40代を楽しんで駆け抜けた。我が子の巣立った後の50代はまた違ったものになるだろうと思っている。楽観している。楽しみたいと思っている。

 その前に一つの区切りとして、自分を語ってみようと思う。まずは自分のため。書くことによって気づくことは多い。そしてぼくの家族やぼくに興味を持つ知り合いの人に向けて。それからぼくもたまにぼくの世代の人の回想記を読むが、そんなふうに誰かが興味を持って読んでくれるかもしれない。書く意味はありそうだ。

by pororompa | 2006-12-10 15:50 | 自分語り | Trackback | Comments(0)