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semスキン用のアイコン01 母の生まれ育った村で (自分語り2) semスキン用のアイコン02

  

2006年 12月 14日

母の生まれ育った村で (自分語り2)_e0006692_2245198.jpg 母はこの村で生まれ育ったという。大正14年生まれで、年齢は昭和の年と大体同じだった。つまり、青春時代が戦時の真最中で成人の年が終戦という、運の悪い世代だった。戦後も望まない結婚をさせられ、早々と離婚していた。十違う異父姉は戸籍上は「黒木」という姓だとかいう話だった。

 再婚しても父が瀕死の病で入院する羽目となり、母は姉と兄とぼくの3人を祖母にあずけて隣町の病院に泊まり込んでいた。一番小さかったぼくだけは連れて歩くことが多かったのだろう、この病院のことが遠い記憶にある。不思議に父のことは記憶にない。蟹を捕って遊んだことだとか、近くの駄菓子屋だとかが記憶の断片として残っている。「グリコのおまけだけとってキャラメルは寝ている父に向かって放り投げていた」とか、「選挙カーの連呼を真似したり皇太子結婚のニュースを叫んで回ったりしていた」という話を母はよく話していた。

 苦労の固まりのような人生を送った母だが、基本的に明るく陽気で冗談好きな人間であったことは、ぼくにとっては救いだった。ただ、母から引き離され寂しい思いをしていた兄と、深刻さを感じないまま母の側で可愛がられていたぼくとでは、性格形成に差が出たかも知れない。

 小学校に入る前までぼくの家があったのは、この村の外れにある「タニゴ」と呼ばれる一角だった。タニゴの「タニ」は谷の意味であったにちがいない。山が平地になる所に開けた小さな谷間に、細い溝のような小川が流れていた。上の地図の、赤い楕円の辺りにその借家はあったはずだが、今はもうない。今年ふと気が向いて行ってみたら、家があった形跡もなく、辺りは雑草が生い茂る荒れ地だった。四、五軒はあった家も、廃屋が残るばかりで、人が住むような家は一軒も残っていなかった。

 この家に暮らしていたのは、ぼくと兄と姉、そして母と祖母である。父も現場暮らしが多かっただろうが一応入院まではここに暮らしていたはずだ。子供の頃何となく不思議に感じていたことがあった。他の家には農機具とかあるのに自分の家には無い。田植えをしたこともないし牛に餌をやることもない。何となくそこに根を張っていないような感じなのだ。粗末な家だった。家には土間があり囲炉裏があったような気がする。裏山で栗や山菜を採ってきては、祖母がちょっとした加工をしていた。鶏もいた。生産的な臭いはその程度だった。

 何でも山林地主であったのを先祖が飲み潰したという話だった。母の父は若い頃は船乗りで、後には桶を作っていたという。この幸脇という村は、耳川という大きな川の河口にあり、対岸は昔は海上交通の拠点として栄えた美々津である。大阪便が往き来するにぎやかな町だったというから、その時代はそういう仕事もいっぱいあったのだろう。この人も酒飲みで子孫に財を残すような人ではなかったというが、奔放な言動の母からは、何となくそういう感じは想像できた。堅実さに欠け享楽的な我が家のトーンは、こちらの血かも知れないという気がする。

 谷間のわびしい家に、とうとう治ることのなかった父の亡骸が帰ってきた日のことは、遠いかすかな記憶に残っている。母にとっては辛く厳しい時代の始まりだったわけだが、父を知らないぼくは、無邪気なものであったろう。ぼくに父を亡くした悲しさはなかった。ぼくにとっては、父は最初からいなかった。

by pororompa | 2006-12-14 22:47 | 自分語り | Comments(0)